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ひとうたの茶席 和歌編

ひとうたの茶席 和歌編

茶の湯の成り立ちにおいて、禅だけでなく和歌とのつながりも見逃せません。たとえば親しい人たちが集まって茶を楽しむ茶会は、もともとは連歌会という和歌の文芸から派生したものですし、利休の弟子が記したといわれる茶の指南書「山上宗二記」には連歌の表現が引き合いに出されています。さらに利休から紹鴎、珠光にさかのぼる茶の湯の流れにも、和歌の系譜を見出すことができます。先人たちが重要視した歌をたどるうち、中国から入ってきた茶の湯は、古来の日本人が大切にしてきた自然に依拠する感性と混ざり合うことによって、独自に形作られてきたのではないかと考えるようになりました。和歌から茶の湯につながる道筋を改めてたどってみたい。それがこの連載の起点となりました。

【わび】

「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春をみせばや」藤原家隆

花が咲くことばかりを待ち望む人。そんな人たちに、山里につもる雪の間から芽吹く若草の、そこにすでにある「春」というものを見せたいものだなぁ。そう詠ったのは鎌倉時代初期に活躍した歌人、藤原家隆でした。家隆は『新古今和歌集』の撰者のひとりとして生涯でたくさんの和歌を詠んだことでも有名でしたが、そのなかでもこの一首を見出し、自身の茶の湯の理想としたのが千利休です。

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【寂び】

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」藤原定家

見渡したところ花も紅葉もここにはない。ただ入り江に佇む苫ぶきの粗末な小屋に、秋の夕暮れがさしている。この和歌に草庵の茶の湯の理想を見出したのが、『南方録』によって利休の師として伝えられる茶人、武野紹鷗でした。かれは日本書道の歴史においても重要な立ち位置にあります。なぜなら、それまでの床の間の掛け物には僧侶の書、いわゆる墨跡を掛けるのが一般的でしたが、紹鷗は茶席において定家の自筆「小倉色紙」を掛けたからです。それは後に利休にも影響を与え、しだいに茶席には歌物を掛けてもよいという風潮となっていきます。

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【冷え枯るる】

「思ひたえ待たじとすれば鳥だにも声せぬ雪の夕暮の山」心敬

思いを絶って、もう待つことはないと心に決めてみれば、人ばかりか鳥の声さえもしない、雪に埋れた夕暮の山よ。
この歌の美意識は侘び茶の祖とされる茶人、珠光にも影響を与えたと見ることができます。同時代を生きた能楽師、金春禅鳳が記した『禅鳳雑談』という書物には、珠光が「月も雲間のなきは嫌にて候」と物語ったエピソードが載っていますが、これは「侘び茶」の創始へとつながる美意識として注目されるものです。

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【もののあはれ】


「同じ野の 露にやつるる藤袴 あはれはかけよかことばかりも」夕霧(『源氏物語』「藤袴」より)

光源氏の子、夕霧。玉鬘を姉と思っていた夕霧でしたが、その後、彼女の出生が明らかとなり、姉弟ではなかったことを知ります。それならばと夕霧は日々恋心を募らせていきます。あるとき伝言を届けにきた彼は、御簾に几帳を添えての対面ではありましたが、玉鬘に藤袴の花を端より差し入れます。そして藤袴の花を手に取ろうとした彼女の袖をぐいと引き、自身の想いをこの和歌にのせて訴えるのです。

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【型】

「明くる夜の月と花とのあはれをもただおしこめてかすむ春かな」正徹

夜明けの月と、白んだなかに見えてくる花。それらに心が動かされても、霞のかかった春の情景は、それをただ静かに押し込めていきます。室町時代中期、臨済宗の僧であった正徹はこのように詠いました。

この歌に感化されたのが同じく室町の連歌師、飯尾宗祇です。彼は正徹の歌を本歌とし、そして型として、その歌の面影は残しつつも自らの感性を詠み上げていきます。

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【冷えさび】

「ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風」源信明

ほのかに明けゆく有明の月の光の下に、紅葉を吹きおろす山おろしの風が吹く。この和歌を詠んだ源信明は、三十六歌仙のひとりにも数えられた平安時代中期の貴族でした。

そしてこの歌を重要視し、これを常に胸に置いて和歌というものを案じるといいといったのが、心敬でした。彼は『ささめごと』という連歌論書を著わしましたが、そのなかで、歌を詠む際には「枯野のすすき」と「有明の月」のような風情を心掛けよと書き留めました。その例のひとつが、冒頭で紹介した一首です。つづけて次のようにいいます。

「言わぬところに心をかけ、冷えさびたるかたを悟り知れとなり。境に入りはてたる人の句は、この風情のみなるべし。」

その道をきわめた人の句は、言わぬところに心をかけた「冷えさび」の風情であると心敬は説きました。

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【幽玄】

月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」在原業平

これは『伊勢物語』の第四段にも登場する有名な和歌です。身分が低く叶わぬ恋をしてしまった男が、想いを寄せたあの人と過ごした思い出の場所に来てみると、彼女は去ったあとで今はもうすっかり変わり果てています。そして男は泣きながら、月が傾くまでその場で伏せてしまうのです。

月は以前の月ではないのか。春も昔のままの春ではないのではないのか。ただ私の身ひとつだけは変わらぬ身のままなのに…。

『古今和歌集』の恋の部立や、他の和歌集に何度もとられるほど、この歌は評価されました。そして室町時代中期の歌僧、正徹もまた、この和歌に魅了されたひとりでした。

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【月ひとつ】

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」阿倍仲麻呂

天のはるか遠くを仰ぎ見れば、月がのぼっている。あの月はきっと、奈良の春日の三笠山に出ていたものと同じ月なのだろうなぁ。

利休が豊臣秀吉を茶に招いたときには定家が書いた小倉色紙が床に掛けられ、その和歌はこの「天の原」だったといいます。秀吉は、なぜ数多ある小倉色紙のなかでも阿倍仲麻呂の歌なのか、不思議におもって利休に尋ねるのです。返答は次のとおりでした。

「此の歌は日本人が唐にて詠みて、月ひとつにて世界国土を兼ねて詠み尽くしたる歌なれば、大燈、虚堂にも劣るべからず」

「月ひとつ」だけで、誰もが共感できる「望郷の念」というものを思い起こさせてくれるこの歌は、その国の文化の垣根をも越えていきます。

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【境】

「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」紀貫之

袖を濡らして、掬った水が凍ってしまったのを、立春を迎えた今日の風が解かしてくれるのでしょうか。

先学では、貫之のこの和歌は中国の『礼記』に見られる「孟春の月、東風氷を解く」を踏まえたもので、春を迎えた喜びを表したものだとの指摘があります。また、この歌は「三季の説」といって、水を掬った夏、それが凍った冬、そしてそれを解かす春、これら三つの季節の動きを上手く詠み込んだ歌だとして、今なお多くの注釈で説明されています。

しかし「水を掬う行為は夏に限るものではない」として、これに疑問を唱えたのが江戸の国学者の契沖でした。たしかに貫之の和歌には、季節のはっきりしないものも多くあることから、この歌を季節性のみで味わうのは少しもったいない気がします。たとえば、和歌中で用いられた「むすびし」という語は、往々にして「掬う」という意味で訳されます。ただ、その言葉の縁として「結ぶ」というイメージも同時に浮かび上がらせてきます。和歌の魅力というのは、その言葉の響きによって解釈の境を如何ようにも拡げてくれるところにあります。

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【見立て】

「盛夏不銷雪 終年無尽風 引秋生手裏 蔵月入懐中」白楽天


盛夏に銷えざる雪
終年尽くること無い風
秋を引いて手の裏に生る 
月を蔵して懐の中に入る

真夏にも消えない雪と年中尽きることのない風。手にとれば涼しい秋が手のうちに生じて、月もすっぽりとおさまって懐に入ってくる。

唐の詩人、白楽天(772〜846)は白くて丸い羽の扇をこのように喩えて詠みました。白楽天の詩における第一の特徴は「平易さ」にあります。白楽天の詩が万人に受け入れられた大きな理由のひとつがこれであり、その表現を支えた主軸には「見立て」というものがあったのだと思います。

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【以近論遠】

「見一葉落 而知歳之将暮 睹瓶中之冰 而知天下之寒 以近論遠」淮南子


一葉の落つるを見て歳の将に暮れなんとするを知る。瓶中の冰を睹て天下の寒を知る。近きを以て遠きを論ずるなり。


ただ一枚の葉が落ちるのを見るだけで、年が今まさに暮れようとしているのを知ることができます。また、甕の中が凍っているのを見て、世の中が寒くなったことを知ります。身近なことをもって遠くのことを論ずるのです。

「以近論遠」という、ごく小さな現象から背後の大きな変化を感じ取ろうとする姿勢は、茶の湯の「わび」の精神にも一脈通ずるものがあると私は考えています。

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【言の葉】

「あはれてふ言の葉ごとにおく露は 昔をこふる涙なりけり」よみ人しらず

心が動かされて 「あはれ」と発する。もしその 「言の葉」の上に降りる露というものがあるとすれば、それは昔のことを恋しく思う涙なのです。

この和歌は『古今和歌集』雑歌下に所収されています。古来、葉の上にのる露のことを「上露(うわつゆ)」といい、儚さの象徴とされてきました。

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ひとうたの茶席 俳諧編

ひとうたの茶席 俳諧編

松尾芭蕉。「奥の細道」で知られる彼は、旅と俳諧を好んだ人物として知られています。しかし実際は、それまでの和歌の歴史と成り立ちを充分に理解した上で、「俳諧」という手法を取りながら江戸時代の人々にも受け入れやすい形で表現した、日本文学史において重要な位置付けを持った人物といえます。

芭蕉はあくまで「うた」によってそれを示し、けっして理論を提示することはありませんでしたが、彼の思想は弟子たちによって考察され、まとめられていきました。現代の視点から再びその歴史に目を向けてみると、結果的に彼の存在は、平安と江戸、現代をつなぐかなめのような役割を果たしているように感じられます。

新たな連載では、このような歴史的位置付けを踏まえながら、松尾芭蕉の視点を追っていきます。

【わび】

「住つかぬ旅のこころや置火燵」芭蕉

芭蕉は、自身の旅で生まれた心を置炬燵と例えました。当時、瓦製の安物の火鉢はこわれやすいためにやぐらの木枠に入れ、そこに布団をかけて使っていました。囲炉裏がない家庭にとっては、移動式の置炬燵は寒き生活の支えでもありました。あちらこちらへと移動し、ひとどころに落ち着かないそのさまは、旅の心と同じであると芭蕉はいいます。炬燵のなかには熱く燃える炭火がありますが、これはまさに命の灯火だと思います。

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【さび】

「花守や白き頭をつき合せ」」去来

謡曲「嵐山」を踏まえて詠まれたこの一句。「花守」は、それまでの和歌や連歌の歴史においては、詠われることのなかった素材でした。詠み手の去来が、その慣習に捉われずに用いることで、以後、「花守」を詠み込む俳人が増えることからみても、俳諧の藝術性をはっきりと世に示した記念すべき作品といってもよいでしょう。

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【ほそみ】

「鳥共も寝入てゐるか余吾の海」路通

漂泊の旅をする路通は、琵琶湖の北側にひろがる余呉の海にいました。静まり返った夜更けの海では、水鳥たちも寝入っている様子。それらに想いを添わせてはみますが、かえって際立ったのは孤独感でした。そんな路通の眼差しは、読み手の心の奥へとゆっくりと染み入ってきます。それは水面で休む水鳥だけでなく、遥か背後にいる山中の鳥、さらに飛躍すれば縁のあった人々や、どこかで自分と同じく旅をしている師、芭蕉にまで想いを馳せているのではないかと思わせます。

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【しをり】

「秋もはやばらつく雨に月の形(なり)」芭蕉

この句は、芭蕉没前わずか二十日余に詠まれたものです。芭蕉はあるひとつのテーマを掴むと何度も推敲を重ね、のちの俳壇においても「芭蕉十句のなかにも屈指すべき名句」といわれる形にまで押し上げていきます。

「句、調はずんば、舌頭に千囀せよ」と弟子に説いた芭蕉。「舌頭千囀」とは、何度も何度も口ずさむことによって、把握と表現との間を行き来することをいいます。これを芭蕉は「しをり」と言い表しました。

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【からび】

「旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉

芭蕉はしばしば「枯」や「痩」の趣に興味を示し、多くの句を残しました。けれどもそれは、けっして悲観的なものではありませんでした。とりわけこの句は、芭蕉の臨終吟でもあることから、人生の最後まで志向した美が表れているといえます。この句に登場する「枯野」は、季語としての役割はもちろんですが、芭蕉の理想郷でもあったと捉えることができます。彼の夢は果てしなく枯野をかけめぐり、その美を追い求めつづけたのです。

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【かるみ】

「坊主子や天窓(あたま) うたるゝ初霰」不玉

じめての 霰(あられ)をおもしろがり、外で駆け回っているのは頭をクリクリに丸めた坊主の子。弟子である不玉のこの句に心動かされた芭蕉は、すでに宗匠稼業を廃していたのにも関わらず、思わず筆を執ります。元禄六年頃、世の俳諧が作り手の心情を露骨に盛り込むようになり、句体が重くなってきていると嘆いた芭蕉。だから自分は、なるべく主観的な句にはせず、むしろ客観的な視点で詠むことにしていると不玉に告げます。それとともに、東北の辺鄙な土地からこのような風雅を見せしめられるとは、心から感心なことだと褒めました。芭蕉がここまで讃美した理由は、彼の俳諧の最終段階として示した「かるみ」の境地がこの句に見えたからでしょう。

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ひとうたの茶席 俳句編

ひとうたの茶席 俳句編

芭蕉とその弟子たちを追う俳諧の旅を続けてきた「ひとうたの茶席」。

特別編として俳句の世界に寄り道し、正岡子規とその思想を受け継いだ俳人たちの句をご紹介いたします。

【写生】

「行水を 捨てる小池や 蓮の花」正岡 子規

「俳」諧における第一句、発「句」(ほっく)。その魅力に気づき、「俳句」という言葉を定着させたのは正岡子規です。

「俳句は文学である」といい、他の藝術と同様の標準をもって論じられるべきだとの主張は、俳句という分野の評価を高めるきっかけとなりました。その後、病床に臥すことになった子規でしたが、文学活動に専念して句会を開きつつ、句誌「ホトトギス」の刊行によって多くの新人を育てます。

「芭蕉の文学は、古を模倣せしにあらずして、自ら発明せしなり」と述べた子規。彼は「写生」論を主軸として、これまでにない表現を試みました。

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【印象】

「赤い椿 白い椿と 落ちにけり」河東 碧梧桐

子規は弟子である河東碧梧桐の句の特色すべきところとして、「極めて印象の明瞭なる句を作る」ことを挙げました。「印象明瞭」とは、読み手の目の前に実物実景を見させるような句のことをいいます。

彼が行き着いたのは「自由律」でした。碧梧桐が自身の句に人間味が匂うようになったのは、自由律俳句に至ったことが大きいといいます。自ら流れ出てくるリズムではなく、無理に五七五調に作り上げようとする技巧では、第一印象を鈍らし、同時に自分の詞を殺してしまう。そう考えた彼は、第一印象を大切にした自由な表現を求めました。

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【時間】

「桐一葉 日当たりながら 落ちにけり」高浜虚子

虚子は、空想的なものを一掃してしまうのは、せっかく古人がこの花に対して付与してくれた種々の趣味を破り捨てることであって、例えば名所などから歴史的な連想を取り除くのと同じである。名所も半分は山水など写生的趣味の上にあるが、半分は歴史的連想の上に美がある。夕顔の花も同じではありませんか、と説いたのです。このやり取りから分かることは、虚子の俳句美学を支えているのが、歴史的連想から生まれる古人との「時間」の共有なのだということです。

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